楽感旅日記

2018年10月29日 (月)

中欧の秋の旅 17 中欧の食③ プラハ 洞窟レストランのランチ&川辺のディナー

プラハでのランチは旧市街広場に面した「U zlaté konvice(読み方不明)」という店名のレストラン。

我が家のツアーコンダクターである妻の初めの目論見では、プラハ城近くにある高台のレストランに行くプランだったが、歩き疲れていたこともあって、解散場所に最も近いところに落ち着いた。

このレストランは、洞窟のような造りになっていた。昔は、おそらくワインセラーか何かではなかったと想像する。

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暗くて角度の急な階段を降りてゆくと、全面煉瓦造りの雰囲気のある店だ。壁には、熊の毛皮とか料理道具がかけられている。

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それらに眼をやりながら席に向かって行くと、同じツアーメンバーのご夫婦が既に着席していた。挨拶を交わし、テーブルに着くと、またもや同じツアーメンバーがやってきた。このレストランには日本語メニューがあるし、近かったからだろう。

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オーダーしたのは、何はなくともピルスナービール。ラージを2杯。我が妻の呑み残しをいただこうという寸法で、、、、。

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料理は私の方は、サーモンのグリル。サーモンの下にはマッシュドポテトがたっぷり添えられている。

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妻は、根菜スープのヌードル添え。これは、ちょっと和の味に近かった。それと骨付きポークのグリル。

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これにもたっぷりのポテトがついていたが、これまで訪れた国の中で、チェコ料理がいちばん日本人に合うようだ。しかし、ボリュームたるや、古希に近い年齢層には、持て余し気味だった。

この日のディナーは、何と(と驚くほどでもないが)、カレル橋で目を付けたレストランだった。

レストランにほど近い広場には、面白い銅像が立っていた。

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「小便小僧」ならぬ「小便青年像(?)」。おまけに、水の噴水口が上下に動いている。「何故?」と疑問を抱きつつ失笑しつつ、一行はレストランに向う。

この日は、ツアー客唯一の新婚旅行のカップルと同席。楽しく会話を弾ませながら、「ヘルゲトヴァー・チヘルナ」の料理に舌鼓を打った。

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野菜が美味しかった。トマトは、思いのほか甘い。このレストランだけでなく、どのレストランでも野菜の味は良かった。

下の写真は、妻がチョイスしたサーモングリル。


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食事の終盤には、ブルダウ川にも夜の帳が下りており、カレル橋がライトアップされている。

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ブルダウ川を滑っていく小さな舟は、漁船だろうか。いいシャッターチャンスに恵まれた。

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ブルダウ川に反射する照明を眺めながらのディナーは、最高だった。

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2018年10月28日 (日)

中欧の秋の旅 16 中欧の食②ブラスチラバ&ウイーン

中欧の食の2回目は、ブラスチラバとウイーン編。

ブラスチバラでのランチは、ブラスチバラ城に接したレストランだった。

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ワインは、この写真のように、今まで見たことがない置き方だった。見た目が美しい。


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このビールは、黒ビールではなく、ピルスナービール。500mlで、3.5ユーロ。430円程度かな。


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スープはまずまずの味。日本人にも抵抗感のないスープだった。


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メインは魚料理。付け合せのポテトの量が多い。


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ポテトは、これから各地で食べた料理のほとんどに付け合せとして出されたが、どこも量が多く、食べ残してしまった。

ディナーは、ウイーンでのイタリアン。プロカッチという店だった。

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ここでの写真は、上の2ショットと料理のほうはメインの一品のみ。


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ポークに付け合せたライスは、インディカ米。欧米では、コメは野菜の部類に入るので、こうした盛り合わせになる。「炊く」のではなく、煮る。久々のコメだったので、完食。

次の日のランチは、ウイーン風カツレツ(シュニッツェル)。我が妻は、何を措いても、この名物料理を食すのだと言っていた。

訪れたレストランは、人気ナンバーワンの「Filgumuller(フィグルミュラー)」。

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最初は、本店を訪れたのだが満員で、予約客以外は支店のほうへと言われ、そちらに向かうと、さすが人気店。ここでも行列ができていた。15~16人ほど並んでいただろうか。

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1時間待ちを覚悟していたが、20分ほどでテーブルに案内された。落ち着いた雰囲気の店内だ。

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まずは、ビール!

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待ちわびたのどを通るピルスナービールは、格別の味である。

待望のシュニッツェル。これで1人前。サラダは、ラージをオーダーしたが、想定外のボリュームで、またも食べ残し。

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食後の皿の状態。

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ちなみに、我が妻の皿も、上に同じ。皿の隣に置かれたのは、シャチハタ印鑑のケース。これが、爪楊枝入れに最適だったのは、思わぬ発見だった。

次回は、プラハの食編。

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2018年10月27日 (土)

中欧の秋の旅 15 中欧の食① ブダペスト

中欧の旅で出会った食事について記しておこう。取り上げるのは、特に印象に残っているいくつか。

最初の観光地・ブダペストでのランチ。

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初めに出てきたスープには、ツアーメンバーのほぼ全員が度肝を抜かれた。丼のような器で供されたのだ。ラーメンかと思うようなボリューム。私は、あまりの驚愕に写真を撮ることも忘れてしまった。

次に出たのが、牛骨のヌードル添え。この麺が蕎麦のような味と食感だった。

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メインは、ポーク料理。可はなく、さりながら不可がある料理だった。したがって、味の印象はなく、大量のスープを飲み干したためか、完食できなかった。

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そしてデザート。これは、ほとんどの人が言っていたように「意味不明の味」だった。甘くはなく、またパンチが効いているのでもなく、例えが適切かどうか疑問だが、寝惚けた味は、甘いようで甘くない菓子で言えば、ういろうのような実に中途半端な味であった。

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その味を理解しようと最後まで食べたのは、私だけ。たぶんメインディッシュを残したせいもあったのだろう。

どうにも、中途半端な印象のランチだった。

ディナーは、予定が変わって、SYRANO(シラノ)というレストラン。ミニマルな色調のモダンな内装で、グレードとしては、中堅といったところだろうか。この店で特に印象に残っているのは、すべての料理に使われた器の直径が40cmほどだったこと。

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チーズケーキが小さく見える。

この店の食器は、人間として器の小さい私に何かを語りかけていたのだろうか。

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2018年10月25日 (木)

中欧の秋の旅 14 旅の準備

旅に出る時は、何を用意していくべきか。出発前に色々と思いを巡らせるものである。

海外旅行であれば、現地の外貨やクレジットカードなど、お金に関係するものは必須だが、不測の事態に備えるものも必要だ。例えば、持病のある人は薬などをもっていかなければならないだろう。

私の場合、足の甲やくるぶしとかに、歩けないほど痛みが生じることがある。渡航前に、病院に行き、痛みどめの薬や湿布などを処方してもらった。幸いにも、旅行中は薬の世話にならずに済んだので胸をなでおろした。

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日本でふつうに使っているものが、海外ではそのまま使えないものも多い。例えば、電化製品。電圧が異なるので、変圧器が必要だが、ツアーメンバーの中に、1組のご夫婦は変圧器を忘れ、添乗員さんを通じてホテルから借りていた。部屋にも変圧器が置かれていたが、これは販売用で3000円だった。私は、Amazonで2個400円で購入。

海外では、トイレは温水洗浄便座が使われていない。お尻の洗浄が当たり前になった日本人には、ちょっといたストレスを感じるものだ。そこで、携帯ウォシュレットを用意した。(Amazonで6400円)

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これは、便利なようで、そうでもなかった。まず、使用するたびに水を入れなくてはならない。また、水圧も低いし、水の量も限定的なので、期待したほど便利とは言い難かった。

使用したのは、3~4回ほど。妻は全く使用せずだった。

まあ、「慣れ」が必要だったのかもしれない。

インターネットや電話(携帯)を海外で使うには、Wifiが必要なので、様々な方法を調べて最終的に決めたのは、レンタルのGlobal Wifi。

ホームページやチラシには、1日300円~となっていたので、「安い!」と思い、見積もりをしてみると、8日間契約(250MB/日)で15096円。しかも、5台の端末で使用できる。

iPhoneの「海外パケット放題」が1日1980円。8日間で17107円(税込み)となる。ただし、私のスマホだけでしか使えない。ならば、Global Wifi のほうが得だBgt。そう思っていたが、妻のスマホは写真撮影がメインで、電話やネットは重要でなかったので、結局、私だけがWifiを使用。通信料は1日最大で180MB足らず。大容量契約は不要だった。しかも、ルーターを持ち歩かなければならないし、充電も必要。受け取り、返却の手間もあった。

後で振り返ってみると、海外でインターネット環境が必要だったのは6日間。

これは、選択の失敗だったような気がする。

今回の旅の目的の一つは、写真撮影だったので、「万全の備え」をしていった。バッテリー、電池、記録メディアは勿論、カメラ本体も不測の事態に備え、サブカメラをスーツケースに入れた。サブカメラは、仕事の際にも用意しているが、ほとんど使ったことがない。今回もサブカメラの出番はなく、スーツケースの片隅に鎮座していただけ。とはいえ、いつ、ないが起こるか分からない。これからも、荷物が増えようとサブカメラを持っていくことになるだろう。

次は、電磁マッサージ器。今回の旅は、思いのほか歩いたので、足腰の疲れに役立った。これは、電池でも動くので、アダプターは持参せず。このマッサージ器は、意外と活躍した。

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最後は、リュック。8年前、イタリアに行ったときは、2台の一眼レフカメラや交換レンズが入る大きめのリュックだったが、サブカメラと交換レンズは使わなかったので、今回は小さめのリュックを購入。これで十分だった。

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さて、今回の経験は次回に生かされるのだろうか。(次回の旅の予定は未定)

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2018年10月22日 (月)

中欧の秋の旅 13 プラハ③市内散策(ユダヤ人街、ヴァーツラフ広場など)

プラハの旧市街広場のすぐ近くには、ボヘミアングラスのショップがあり、カッティング作業を見学した。職人さんは、声をかけられないほど真剣な表情で作業に打ち込んでいる。

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ガラス製品を土産に買いもとめたが、ウイスキーグラスなどは、日本の3分の1の値段だ。感動的に安い。長女夫婦と、次女の連れ合い、それに自分の分を購入。

昼食後は、カフカの生家とユダヤ人街を回った。カフカの生家は、修理中で見られず、資料館の前を通っただけ。

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カフカの生家の前の道を進んでいくと、ユダヤ人街に着く。

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土産物屋が軒を連ねている。

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思いのほか、人が集まっていたのは、シナゴーグ。集会所である。現在は、集会には使われていない。プラハ最古のゴシック様式の建築物だといい、13世紀に建立。700年超の星霜を経たとは驚いてしまう。

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プラハにユダヤ人が居住するようになったのは、10世紀後半。抑圧された時代を経て、1254年に、当時のボヘミア王が「ユダヤ人法」を制定し、キリスト教徒との接触を禁止され、また居住区を限定されたりしたが、共同体には経済活動を始めとする市民活動が保護され、中欧で最大のユダヤ人地区になったという。

その後、様々な迫害や制限を受けたという。ナチスドイツによって、アウシュビッツに送られ、5万5千人の住民の内、3分の2が毒ガスで命を絶たれたという。

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ユダヤ人街を後にして、地図を手にして市内を散策。

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ヴァーツラフ広場を目指していったが、地図が正確ではないので、あっちに行き、こっちに戻りつつ、それらしき場所に着いた。広場と言っても、幅が60m、長さが700m。車が通る広い道路のようなものである。緩い坂道を上って行くと、その先にヴァーツラフ騎馬像が立っており、その後ろに国立博物館がある。


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このヴァーツラフ広場は、チェコの民主化運動で幾度も舞台になった場所。1968年の「プラハの春」や1989年の「ビロード革命」の際は、多くの市民、国民が民主化を訴えたという。

この日もかなり歩いたので、少々足に疲れが出てきたので、ディナーまで一休みしようと、ホテルへと向かった。

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何気ない街の風景も、絵になる。

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昼下がりの公園。ゆったりとした時間が流れている。

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これで、観光は終了。プラハ最後の夜は、ツアー参加者全員でのモルダウ河畔でのディナーである。(次回に続く)

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2018年10月21日 (日)

中欧の秋の旅 12 プラハ②カレル橋、旧市街

プラハ城の道を下りカレル橋に向かって歩いて行く。

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ごく普通の街の道を縫って行くのだが、どこも古都の風情を残す街並みである。カメラマンという眼を通してその風景を見ると、自然にカメラを向けたくなる。

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そうしているうちに、いつしかカレル橋のたもとに着いた。

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このカレル橋も名所旧跡の必須ポイントなので、多くの観光客で賑わっている。この橋は、神聖ローマ帝の帝王カレル4世が君臨した1357年に起工され、45年をかけて完成したという。

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橋の両側の欄干には、30体の聖人像が並んでいる。

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触ると、「ご利益」があるという聖人像。その部分が金色に光っているが、果たしてご利益があったのだろうか。ちなみに、両方に触れないとご利益に恵まれないのだそうだ。

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ストリート、いや、ブリッジミュージシャンも腕前を披露している。

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土産物屋も、何軒かある。

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この地方の笛(?)を売っている女性は、演奏も披露している。


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川の両岸に聳え立つ塔には、目を見張らせられる。じつに荘厳な佇まいだ。

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この橋からプラハ城を間近に望むことができる。川越しに見るプラハ城は、実に絵になる。

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橋を渡ると、カレル4世の像がある。この場所も、プラハ城を眺めるスポットになっているので、とても賑わっている。

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ここからしばらく歩いていくと、ほどなく旧市街広場に出る。

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その道すがら、世界遺産に似つかわしくない人が。

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物乞いのスタイルにも、国柄があるのか、別の場所で見た老女の物乞いも、こういう姿勢だった。

ところで、チェコの人は、クリスマスに鯉料理を食べるのだそうだ。養殖が盛んに行われているし、街の中でも鯉のオブジェを使った看板が目につく。

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旧市街広場は、多くの観光客でごった返している。

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特に人が集まるのは、天文時計の下。

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午前9時から午後9時まで1時間おきに、キリストの十二使徒の人形仕掛けが動くという。残念ながら、これはパス。

この場所で、一時解散となり、午後はフリータイム。我々は、ユダヤ人街を回った後、ランチタイムを過ごすために、時計塔の向かいにあるレストランに入った。

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2018年10月19日 (金)

中欧の秋の旅 10 プラハ ①プラハ城・ビート大聖堂・聖イジー教会・旧王宮・黄金の小径

旅の5日目。前夜バスでチェスキークルムロフからプラハに到着。

プラハはチェコ共和国の首都で、人口は福岡市とほぼ同じ120万人。現代では大都市と言えないが、14世紀にはローマやコンスタンチノープルと並ぶ世界最大級の都市だったという。

プラハを始め、チェコ共和国はかつて幾多の外敵の侵略と支配を受けてきた。しかし、今日の美しい街並みを目にすると、そんな凄惨な歴史など、幻のように思えてくる。

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支配する側にしても、支配される側にしても、この街を破壊することなく守り続けたことは、人知の為せる業と言うべきだろうか。

プラハと言えば、最初に頭に浮かぶ言葉は、1968年の「プラハの春」だろう。ソ連の抑圧に対する改革運動は、この年の前半に功を奏して民主化の流れに乗るかと思えたが、ソ連の反攻によって、わずか半年あまりで社会主義体制に戻ってしまった。

チェコに本当の春が訪れたのは、それから23年後のビロード革命だった。美しいプラハの街には、やはり自由と平和がよく似合う。

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プラハの象徴の一つが、プラハ城。870年に創建され、長さが570mで幅が130mもあって。世界最大の城である。かつては、ボヘミア国王や神聖ローマ皇帝の居城であったといい、現在はチェコ共和国の大統領府がある。

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城に入るには、入場門で空港並みのセキュリティチェックを受けるのだが、どういうわけか3回引っかかった。ウイーン空港でも何度も引っかかったので、体内に何かあるのだろうか?

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城内の広場に面して、大統領府があり、時には大統領がバルコニーから挨拶をするとか。

城内には、ゴシック様式のビート大聖堂がある。


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この場所に最初の教会が建てられたのは、925年。現在の大聖堂として完成したのは、1929年。2つある尖塔の高さは88m、鐘楼は99mだ。

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ステンドガラスが見事で、ミュシャが制作した作品が有名。

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城内には、もう一つ有名な聖イジー教会がある。こちらはロマネスク様式で、創建は920年。チェコ共和国最古の教会で、973年に修道院棟が加わった。現在は国立美術館やコンサートホールとしても使われている。

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多くの聖人が埋葬されており、ボヘミア王国と民族を守った英雄として今も敬愛を集めるヴァーツラフ1世の墓廟には、お参りをする人が絶えない。

これだけ立派な教会があるチェコ共和国ではあるが、無宗教者が多いのだという。ハプスブルク家による統治の時代にカトリックに改宗させられたことに対する強いレジスタンスのためだという。現在のキリスト教徒は、国民の3割程度だとか。キリスト教徒でもなく、宗教心の薄い我々は、建築的・芸術的観点から由緒正しい教会にひれ伏すのみであった。

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プラハ城内にある旧王宮は、9世紀から10世紀にわたって建築され、議事堂の役割を経て、12世紀から16世紀まで、王宮として使われたという。材料のほとんどに木材が使用されている建物だ。

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この王宮には、因縁の場所がある。ハプスブルク家の使者をボヘミア貴族が10メートル下の地面に投げ出したという窓である。

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この事件が引き金となって、30年戦争が始まったという。投げ出された使者は、どうなったか。落ちた所には枯れ草が積まれていて、怪我を負うことなく窓の隣にある階段を上って来たということだ。嘘のような話である。

旧王宮を進んでいくと、黄金の小径。

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黄金の小径という名称は、中世に盛んに行われた錬金術の職人が住んでいたことが由来している。その後、王宮を守る兵士の住まいとなった。今は、土産物店や往時の兵士の住まいを再現している。ワンフロア6平米くらいの極小住宅だが、カラフルな外壁がメルヘンチックな佇まいである。

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プラハ城の入口と反対側の通路を市街に向かって降りて行くと、プラハ市内が一望できる場所がある。ここでは、市街に向けてカメラを構える人が溢れている。

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高台から見ても、プラハは美しい街だった。

プラハ城見学は、これにて終了。次は、市街に降りてカレル橋に向かう。

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2018年10月18日 (木)

中欧の秋の旅 8 ウイーン ③市内散策とモーツァルト・コンサートの夕べ

ベルベデーレ宮殿見学後は、自由時間となり、我々は当地の名物料理を食した後、市内観光とショッピングを楽しんだ。楽しんだとは言え、私は妻の後を付いて回り、隙を見てカメラのシャッターを押すくらいなもの。護衛役にもならなかったのでは。

では、市内の風景を。ウイーンの「銀座通り」

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中国の方々は、「光り物」がお好きで、スワロフスキーの店内は、かの国の買い物客で埋まっていた。(日本人は、肩身が狭い)


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土曜の午後のカフェは大賑わい。


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次は、前夜に撮影した夜景の数々。

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馬車がひずめの音を石畳に響かせていた。

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この日も歩き回ったので、散策の後は、ホテルで休もうということで、夕食は、スーパーでビールと軽食を買って、室内で済ませ、夜のクラシックコンサートに備えた。

コンサートは、ウイーンフィルハーモニーが根城としている楽友協会で行われた。このコンサートホールの音響は、世界でトップクラス、というより世界一と言われている。9時開演なので、楽友協会は美しくライトアップされている。

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妻部分には、三体の彫像が埋め込まれている。誰かは、不明。

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演奏を聴く前から心を踊らさせる。開演までは、館内の撮影を楽しんだ。

ウイーンゆかりの音楽家の彫像。

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会場として使われたのは、黄金の間。

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壁や天井は、金箔で装飾されている。日本にも金箔で彩られた建物があるが、スケールが違い過ぎる。

そうこうすらうちに、開演となった。コンサートは観光客目当てなので、演奏者は中世の宮廷演奏家の衣装を着て、観客の目を和ませる。曲目もポピュラーな楽曲が続くので、クラシック初心者でも肩肘をはらずに聴くことができる。また、管弦楽演奏だけでなく、間に男性歌手と女性歌手による歌劇もあって、聴衆を飽きさせない構成になっている。

中休みは、15分あったので、ワインでも飲んでリラックスしようと思ったが、お店はすごい人だかり。諦めて席に戻ることに。

後半も楽しい演奏が続く。締めの曲は、ウィンナーワルツの代表曲「美しき青きドナウ」。そしてアンコールは、「ラデツキー行進曲」。指揮棒が振られると、聴衆が「ここぞ」とばかりに手拍子を始める。指揮者があちらこちらの聴衆に手拍子の指示をする。聴衆もそれに応える。

会場が一体となり、興奮がクライマックスを迎えたところで、お開きとなった。終了したのは、22時過ぎ。いい一日の締めだった。ウイーンの夜景を愛でながら、バスにてホテルへ。

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2018年10月17日 (水)

中欧の秋の旅 7 ウイーン ②ベルベデーレ宮殿

旅の4日目のこの日は、「シェーンブルン宮殿」見学の後、「ベルベデーレ宮殿」と、宮殿見学が続く。

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この宮殿は、皇帝の住まいではなく、ハプスブルク家に仕えた軍人・政治家のプリンツ・オイゲンが建てたもの。豪華さ、絢爛さにおいてはシェーンブルン宮殿に及ばないが、軍人の所有物にしては、随分と立派だ。

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卓越した戦績を挙げたとはいえ、一軍人がこれだけの資産を形成するには、さぞかし掠奪を繰り返したに違いない。

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そう思っていたが、調べてみると、出自はフランス貴族。略奪の成果ではないかもしれない。彼の死後、宮殿はマリア・テレジアか購入したという。

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次の写真は、宮殿裏にある庭園。ウイーン市内を眼下に望むことができる。翼の生えた獅子像の乳房は、何かご利益があるのか、多くの観光客が触れていた。

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現在、この宮殿は、美術館になっており、オーストリアを代表する画家クリムトの絵画などが所蔵されている。

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ここは、館内の撮影が許可されている。目玉であるクリムトは、さほど好きな画家ではないので、作品を鑑賞しても、受けた感銘は薄かった。

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(クリムトの代表作の一つ「接吻」をカメラにおさめる人たち)

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これも代表作である「ユディト」。これに象徴されるように、クリムトはかなり官能的な作品を残し、自らもまた「官能的なる人生」を全うしたそうだ。

彼が自分の画風を確立するまでのストーリーには大変興味を惹かれた。マリア・テレジアも好んだジャポニズムの影響をクリムトも受け、浮世絵や琳派を思わせる作品もいくつか描いている。ヨーロッパの美術界に大きな影響を与えたジャポニズム。現地で実際に作品を目にすると、それが現実のものとなって感興に迫ってくるものがある。

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後で、写真を整理していたら、館内も結構豪華なことに気づいた。シェーンブルン宮殿を見た後では、感銘度が薄くなったか?

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ナポレオンの肖像画もある。かなりカッコいいので、修正されているのだろう。

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この後は、自由時間となり、我々は当地の名物料理を食した後、市内観光とショッピングを楽しんだ。楽しんだとは言え、私は妻の後を付いて回り、隙を見てカメラのシャッターを押すくらいなもの。護衛役にもならなかったのでは。

次回は、市内散策とモーツァルト・コンサートの夕べ。

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2018年10月16日 (火)

中欧の秋の旅 6 ウイーン ①シェーンブルン宮殿

旅の4日目。ウイーンは、言わずと知れた音楽の街である。

大天才モーツァルトを始め、楽聖ベートーベン、ワルツ王ヨハン・シュトラウス、歌曲の王シューベルトなど、音楽史に燦然と輝く作曲家が活躍した都市だ。そしてハプスブルク家が中世から600年間もの長きにわたって君臨した都市でもある。

この日始めに訪れたのは、シェーンブルン宮殿。ヨーロッパで最も美しいバロック様式の建物と言われる。

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ハプスブルク家の威信をかけて、フランスのヴェルサイユを凌ぐ宮殿を建設する計画が1668年にスタート。その後、スペインとの戦争が勃発し建設費の大幅な削減を迫られた。そのため、当初計画の何分の一かの規模に縮小されつつ、1740年代に女帝マリア・テレジアの代になって、現在の形になったという。

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ヴェルサイユ宮殿に及ばないとは言え、部屋数は1441室。大規模なホテル並みだ。贅を極めたこの宮殿は、離宮、つまり別荘である。

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見学は、通常開館前の特別観覧。他のツアー客とかち合うことなく、落ち着いて観ることができた。

現地ガイドは日本人名だが、血も言葉も現地のものが混じっているようだった。部屋や調度品、家具、美術品の由来や様式についての説明は、微に入り細を穿ち、ユーモアたっぷりに、しかも日本の最近の話題にも触れていたのが見事だった。今回の現地ガイドの中で、出色のレベルだった。名前は、マスノ・ケイコさん。

内部撮影は一切禁止なので、写真がないのが残念だが、ヨーロッパ随一の栄華を誇っただけのことはある。ロココ調だけでなく、シノビズム、ジャポニズムなど、その時代のトレンドをリードする美術工芸品が至るところに鎮座していた。当然、国宝級の品ばかりである。

宮殿の裏には、庭園(これも世界遺産)が広がっている。

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有り余る財力で超一流品を集めたわけだが、確かな審美眼、優れた美的感覚にも感心させられた。超一流しか知らない人種の元には、超一流のものしか集まらないものであることを改めて認識させられた。

下の写真は、凱旋門。

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そうしたハプスブルク家の豪奢な生活の一方で、大多数の国民は非常に貧しい生活を強いられていた。ごく少数の富者と圧倒的な貧者という構図がそこにはある。極端な富とインテリジェンスの偏在(富者への富と文化芸術の集中)があるからこそ、こうした文化遺産が末代まで残されるというのも、ひとつの歴史的事実なのかもしれない。

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さて、このシェーンブルン宮殿、現在は、公的機関の事務所や賃貸住宅、ホテルとしても使われているそうだ。世界遺産の住み心地は、どんなものだろうか。

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「中欧の秋の旅」シリーズも7回目となったが、まだまだ旅は続く。次回は、ベルベデーレ宮殿とウイーン市内観光。

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